目 次八雲が松江での最後の5ヶ月間をセツと過ごしたお濠端の家 蛙、蝶、蟻、蜘蛛、蝉、筍、夕焼け。これらはセツがのちに八雲との日々を回想した『思ひ出の記』に記した「八雲の一番のお友達」である。 八雲は、松江城の北縁に建つお濠端の家で、こうした愛するものを眺め、その声を聴くのを楽しんでいたことだろう。僅か半年に満たないこの家での暮らしだったが、『知られぬ日本の面影』に収められた『日本の庭にて』には、庭に在るものや棲むもの、訪れるものへの、八雲のあたたかい眼差しが溢れている。それらを観察し、ふれ合うことを通して思いを馳せた、日本人の自然観や精神文化について、その鋭敏な感性に裏打ちされた豊穣な文体で綴っている。お濠端の家の歴史 八雲の松江最後の住まいとなった根岸邸(2018年に松江市の所有となる)は、松江城北側の内濠沿いに延びる「塩見縄手」と呼ばれる街路に面した、北堀町315番地にある。周辺は現在、松江市の伝統美観保存区域になっている。 歴代の松江城下図には、この屋敷地に江戸初期から居住者のあったことが見える。現在の建物の創建時期については遅くとも享保年間(1716年〜1736年)と伝わるが定かではない。その後数軒の先住者のあったことが窺えるが、1850(嘉永3)年に根岸家の所有となった。 根岸家は松平家初代松江藩主である直政公の越前時代からの家来で、来松当時は禄高100石であった。奥谷町にある萬寿寺近くに居を構え、8代目の小舟(しょうしゅう)の時まで住んでいた。その後9代の小石(しょうせき)の時にこのお濠端の家に移り住む。当時の敷地は約500坪、建て坪は平屋で約60坪を数えた。周辺は当時、中級武士の住むエリアであり、小石は何らかの功を賞せられたのか380石を得るようになっていた。 小石は「景色の良いのは家中屋敷中にも稀に見るところ。向かい側の堀端に家は一軒もなく西側前方は家の前の松並木を隔て、新橋、稲荷橋から城山のを眺め、東側は遥か霊峰大山を望み、裏手の北には真山(山中鹿介城址)白鹿の連山の景を賞す。井戸には清水が豊かに湧き・・・」と、良い家を得た大きな喜びを記している。 明治に入り、代は10代の干夫(たてお)に移る。この時期に、それまで茅葺きであった屋根が桟瓦葺きに改められ、庭にも大きな改造が加えられた。その後、干夫は1882(明治15)年に神門郡郡長として家族と共に出雲今市に居を構えたため、この家は留守宅となっていた。八雲とセツの入居とその後 第二の宿・織原邸を手狭に感じ、できれば広い武家の屋敷に移りたいと望んでいた八雲の思いを受け、セツは小泉家と古い姻戚関係にあった根岸家に話を持ちかける。下見に来た八雲は大層気に入り、この留守宅を借り受けることとなった。二人は1891(明治24)年6月22日に女中と子猫を連れて入居し、11月15日に熊本に旅立つまでの約5か月間をこの家で過ごした。 八雲はその後一度だけこの家を訪れたことがある。それは彼が神戸に滞在していた1896(明治29)年の夏のことであった。セツとの法的結婚と帰化の報告もあって、家族とともに松江を訪問した折で、八雲は「我が家に帰りました」と懐かしそうに家の内外を眺め、ゆっくりと2時間を過ごして帰途についたという。 この時、干夫は八束郡長となり松江に戻ったばかりであったが、役目柄、家が手狭になったため、その後、池を埋めて建て増しをしたり、内部を改造して押入れや廊下などを新たにつくっている。 干夫の長男で11代の磐井(いわい)は松江中学校から八雲が教鞭を執っていた熊本の第五高等中学校に進み、東京帝国大学を卒業して日本銀行に勤務していた。やがて『知られぬ日本の面影』を読み、自分の生まれ育った家と八雲との深いつながりや、「私はすでにこの家が少々気に入りすぎたようだ」とまで記していたことを知る。1913(大正2)年には当時の松江銀行に常務取締役として招かれ、帰郷してこの家に戻ることとなった。 磐井は銀行の重役として、地域の経済発展のため農業・漁業の振興に取り組む傍ら、1915年(大正4)年、八雲に直接に教えを受けた人たちを始めとする関係者とともに、松江で「八雲会」を結成した。毎年「ヘルン先生」の命日である9月26日には座談会を催し追悼した。また、この会を中心に小泉八雲記念館建設運動が展開され、1934年(昭和9)年には小泉八雲記念館が設立されるなど、八雲の顕彰と旧居の保存活動に尽力した。しかし、磐井は記念館の開館を見ることなく、前年の3月に肺炎で急逝してしまう。 旧居の公開は1920(大正9)年から始まった。これまでは八雲とセツが主に使っていた西側の6室のみが公開されてきたが、現在全室公開に向けた検討と準備が進められていると聞く。 1940(昭和15)年8月には、旧居が国の史蹟指定を受ける運びとなったが、1964(昭和39)年の大水害の際には、屋敷のすべての建物が床上浸水の被害に遭った。その後、建物の老朽化が顕著となったため、1982(昭和57)年から丸2年をかけ、国庫補助事業として大規模な修理工事が行われた。その結果、現在のような、八雲とセツが暮らした1891(明治24)年当時の姿が復元されたのである。 旧居は2018年(平成30)年に松江市の所有となり、代々根岸家が担ってきたその管理は、現在は一般社団法人となった八雲会に委託されている。3/4へ続く