目 次旧居でのふたりの暮らし お濠端の家には、大橋川に面していた織原邸のような美しい眺望はなかった。八雲はこの家の造りそのものについては多くを語っていないが、高い塀に囲まれた「隔離された環境」と嘆く一方で、前述の通りそのゆったりとした上品な造りをとても気に入っていたようであり、セツも同じ思いを書き綴っている。 この家に長く暮らし、その保存管理に心血を注いでこられた前出の根岸道子氏によれば、八雲が書斎として使っていた北側の部屋は、この家に移り住んだ9代の小石が、自分の居室とするために色々と工夫を凝らし、茶室に準じた風情のある部屋に仕上げたものだという。上の写真の、書斎東側にある6畳間は、元は仏間であったものを改造して、セツの部屋として公開したものである。 八雲は学校から帰宅すると、まず和装に着替え、庭に面した縁側の日陰にしゃがみ込む。厚く苔蒸した古い土塀が街の喧騒を遮り、鳥や蝉の声、池に飛び込む蛙の水しぶきが彼の一日の疲れを癒した。 八雲は食べ物も日本風を好んだと言われるが、家では西洋のものもよく口にした。松江には、当時の日本海側の都市としては珍しい毎朝の牛乳の配達があり、ビステキ(ビーフステーキ)を出前してくれる腕利きのコックもいた。夕食時にはビールを2本飲み、飲み残した時は、書斎でお気に入りの和菓子と庭の景色を肴に、続きを愉しんだと伝わる。 40年近くにも及ぶ長く遠い旅路の末に手に入れた、この家での安らかな落ち着いた暮らしを、八雲は心から喜んでいたことだろう。そのことは、前掲の通り、『日本の庭にて』のおわりに「私はすでに自分の住まいが、少々気に入りすぎたようだ」と綴っていることからも伝わってくる。 その背景には、伴侶となったセツの存在があったことを忘れてはならない。セツは八雲の身の回りの世話や来客の応対に日々細やかに心を配っていた。初めは住み込みの世話係として共に生活するようになったセツだが、この家での暮らしを通してハーンと深く心を通わせるようになっていった。 長谷川洋二氏は、著書『八雲の妻 −小泉セツの生涯− 』でそのことに触れ、次のように記している。「セツがハーンから真に愛されるようになっていったことは、ハーンがチェンバレンに宛てた七月二十五日付の手紙の中で『日本の女性は何と優しいのでしょう。日本民族の善への可能性は、この日本女性の中に集約されているようです』と書いていることにも窺える」。おわりに -八雲の予言- 入居から僅か5か月足らずの1891(明治24)年11月15日、八雲は新たな赴任地・熊本に向けて松江を旅立った。その決断に至った主な理由には、松江の冬の寒さが八雲には耐え難いものだったことや、セツとその家族を養うためにより高い俸給を望んだことがあったと言われている。松江での暮らしは1年2か月余りの短いものであった。だが、その後の八雲の創作や生き方に大きな影響を与えたであろうことは疑うべくもない。 おわりに、『日本の庭にて』の最後に綴られた一節をご紹介する。 この家中屋敷もこの庭も、いずれはすべてが永遠に姿を消してしまうことになるだろう。(中略)古風で趣のあったこの出雲の町も大きく拡張され、やがて平凡な一都市へと変貌を遂げることになるであろう。 松江の街とこの小さな庭に、16世紀の自然と夢の幸福感を見い出しつつ、その儚い行く末を憂えた八雲だったが、幸いにもこの予言は当たらなかった。根岸家の人々や、八雲を敬愛する多くの人々によってこの家は大切に守られ、松江も、そのかけがえのない歴史的景観を生かした街づくりが、今なお模索され続けている。主な参考文献・資料■ 小泉八雲著、池田雅之訳 『新編 日本の面影』 角川書店■ 小泉節子著 『思ひ出の記』 ハーベスト出版■ 長谷川洋二著 『八雲の妻 −小泉セツの生涯− 』 今井書店■ 根岸道子著 『お濠端に暮らす』 松江北堀美術館■ 小泉八雲記念館・図録 『小泉八雲、開かれた精神の航跡』 『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』■ 小泉八雲記念館企画展・解説 『ラフカディオ・ハーンとギリシャ』■ 小泉凡 『小泉八雲とセツに関する基礎知識研修会・講演資料』■ 新宿歴史博物館特別展・図録 『小泉八雲 放浪するゴースト』■ 松江市 『史跡小泉八雲旧居修理工事報告書』■ 押田良樹 『へルン第二の住まい −諸説に終止符を− 』■ 引野律子 『松江市観光ボランティアガイドの会 養成講座「塩見縄手」現地研修資料』凡例■ 名前表記について、日本に帰化する前の時期については「ラフカディオ・ハーン」とすべきだが、帰化して日本人となった八雲の思いを汲み、引用部分以外は「小泉八雲」で統一した。■ 引用した八雲の作品については、筆者の母校であり、八雲が最後に教鞭を執った早稲田大学の研究者である池田雅之氏の訳に拠った。制作環境■ LUMIX G99D, LEICA VARIO ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0, LUMIX 20mm F1.7■ RICOH GRlllx, iPhone13■ Apple MacBookPro, Adobe InDesign, Lightroom, Photoshop, Illustrator, STUDIO